藤田家の朝の風景

 

 

 

 

 

 

 朝もやの中に、蜆売りの声が遠く響く。東京、と呼ぶよりは、未だ江戸と呼ぶがふさわしい風情の下町に、東京府下、警視庁巡査、藤田五郎の借家はあった。こじんまりと、質素ではあるが、彼の細君が丹精した庭に、二間続きの6畳間と、土間の台所。
 朝食の支度を終えて、夫を起こしに行くと、既に身支度を整えて、食卓についている。

 夫はいつも時間に正確で、隙がなかった。

 静かに、朝食の卓をかこみ、毎日違う、一汁一切からはずれることのない、贅沢ではないが、栄養価の高い妻の心づくしを、夫は黙々とたいらげている。黙って碗を差し出すと、妻は黙ってそれをうけて、飯をよそう。どうかすると、それは茶道の所作のように、見えない規則にのっとっているかのように、よどみなく、流れていく。

 食事が済むと、夫は懐中から煙草を一本と取り出して、火をつける。紫煙がくゆり、あわただしいはずの朝だというのに、時がひどくゆっくりゆっくり進むような錯覚に陥る。
 妻は茶をすすり、夫はのんびりと煙草を飲む。そうして時を過ごす事を、どちらも口には出さないが大切にしていた。

 変わることのない、いつも通りの静かな朝の風景は、雨の日も、晴れの日も、風の日も、規則正しく過ぎていた。

 …時として、夫がひどく体に傷をおって帰って来る時もあったが、翌日には、妻が起こすより先に支度を整え卓についている。

 長期の出張や、泊りがけの勤務を除けば、結婚以来、それは一日も違わず繰り返されていた。

 朝食を終えて、夫を見送り、家事に精を出しているうちに夫が帰宅してくる。夕食、就寝と、舶来の回転人形が延々台座の上でくるくると回っていくように、刻まれるリズムは変わりなく。淡々と、淡々と過ぎていく日々を、妻は別段飽くこともなく。むしろ好ましく過ごしている。夫は無口な性質ではあったが、その為、不用意な言葉で妻を傷つける事は無かったし、歯の浮くような愛の言葉をささやくことはなくても、まっとうな成人男性として妻をおろそかにするような事は無かった。

 その日も、夏の終わり、少々涼しくなった朝。変わりない一日の始まり。出勤する夫を玄関先で見送る妻は、いつも三つ指をついて「いってらっしゃいませ」と送り出し、夫といえば「今日は何時頃戻って来る」と答え、「では行って来る」と、くるりと背を向けるのが常ではあった…。が、その日は少しだけ違っていた。

 いつものごとく三つ指をついて妻がふと顔を見上げ、まっすぐに夫を見て、言った。

「私、懐妊いたしました」

 それは、いつもの所作といささかも外れることなく、まるで「今日は何時頃お戻りですか?」と尋ねる声と変わりないように発せられた。だから、不意打ちのようなその言葉に、夫は表情をつくりきれず、ひどく頓狂な顔をした。普段は、あるのかわからない瞳が大きく見開かれ、口は一文字に引かれている。

 驚きのあまり、夫は、帽子を取り落とした。

 妻はその一言だけ言ってしまうと、いかにもすっきりとして、いつもどおり三つ指をつき。

「では、いってらっしゃいませ」

 と、深々と頭を垂れた。

 夫は、取り落とした帽子を拾い、被りなおすと、いつものようにくるりと背を向けて。

「………、では、言って来る」

 と、自宅を後にした。

 いつも仏頂面で有名な巡査さんが、今日はやけにニヤニヤと足取りも軽く、歩いている姿を、近所の多くの者が目撃したという。

 そして翌日、いつものようにまた朝が来て、妻が起こす前に夫は身支度を整え、いつも通りの朝食が始まる。

 ただ、その日から、ひとつだけ変わった事がある。食事を終えて、煙草に火をつける所作に移るはずの夫が、黙って湯のみを差し出した。

「…茶を、もう一杯いただこうか」

 妻はやわらかく微笑んで、夫の湯のみに茶を注いだ。

 この所作は、妻が先立つその日まで、場所が変わり、家族が増え、成長していき移ろう日々の中でも、変わることなく繰り返される事となる。

 いつもと同じ、なごやかな、藤田家の朝の風景だった。

(了)

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