祭りの夜

 

 

 

 

 

 

 

 

 祭り囃子が風にのって届く高台の住宅地、そのうちの一軒に、「荻野家」はあった。最近東京から越してきたばかりの家族は、車で15分ほどの仕事場へでかけていくお父さんと、一応専業だけれども、あまりにもやることがないため、パートにでもでようかとしているお母さんと、小学校4年生の娘の計三人家族。

 夏休みの初めに引越してきたのは、娘の千尋にとって不幸だった。せっかくの夏休みだというのに、一緒に遊ぶ友達がいなければ、楽しみは半減してしまう。

 図書館に行っても、プールに行っても、子供達は見慣れない千尋を遠巻きに眺めるだけで、声をかけようとはしなかったし、特別内向的、というわけではなかったが、初対面の子供達の輪の中に、いきなり入っていけるほど千尋は社交的ではなかったのだ。

 多くの子にとっては、夏休みの終わりは、長い新学期の始まりで気鬱なはずだったが、千尋にとっては、始業式が待ち遠しく、何の因果か、日曜になってしまった9月1日を、まるで神様がいじわるをしているかのような気になってしまったのは、むしろ仕方ないと言えただろう。

 まして、9月の第一日曜は、この町の祇園祭りなのだという。

  まだ宵宮だというのに、祭り囃子は風にのって高台の住宅地にも聞こえてきたし、お祭りのために、はっぴや、山車の太鼓を叩くための装束に身を包んだ子供達が、楽しそうに坂を降りていくのを、千尋は、朝から憂鬱な思いで、窓の外を眺めていた。

 千尋は他の多くの子供達と一緒でお祭りは大好きだった。少ないこずかいをやりくりして、金魚すくい、型抜き、輪投げで遊び、カキ氷を食べる。そうした楽しみだって、一人では、きっとちっともおもしろくないに違いないのだから。

 それが、翌日、日曜の朝に一転した。

「金棒引き?」

 地区の子供会の世話役が、荻野家を訪れたのは、宵宮の明けた朝の事。なんでも、山車の先頭に立って先導する女の子の一人が、夕べの宵宮に怪我をしてしまい、千尋にピンチヒッターを頼みにやってきたのだった。

「途中で人数が変わるもの、なんだかあまり縁起が良くないですし…、うかがったらこちらの千尋ちゃんは4年生だって言うじゃありませんか、他の子達も4年生でちょうどいいし、5年生6年生の女の子は、もう太鼓叩きで手一杯で…」

 荻野家の二軒先に住む区長の奥さんは、小太りの柔和な顔を申し訳なさそうにしながら、千尋に頼み込んだ。

 千尋がそれを引き受けたのは、祭りの輪に入りたかったのもあったし、何より世話役のおばさんの持ってきた衣装に心惹かれたためだった。

 七夕の織姫が身に付けるような唐風の衣装に(…といっても生地は浴衣地なのだが)、勺仗は振るとしゃらしゃらと音をたてる。真っ白に化粧した顔に、赤い紅が映えて、髪は上にあげて結われた。

 連れていかれた美容院では、既に他の子供達が支度を終えている。金棒引きは全部で六人。千尋の他、五人は全員4年生。学校は同じはずだが、クラスまではわからかったので、始業式に机を並べる予定になるのは誰なのか、今のところはわからない。少し、…不安ではあった、が、思ったよりずっと少女たちは友好的で、昼を過ぎる頃には、随分と打ち解けることができたのだった。

 夕闇が近づくと、祭りは架橋に入る。「喧嘩太鼓」という、スピード感ある鼓動を地区ごとの山車に詰まれた太鼓が叩きだす。三台の小太鼓と、一台の大太鼓、鐘が、一体となって、リズムを崩さず、より長く続けた山車の勝ちとなる。

 山車の先導をしている金棒引きは、喧嘩太鼓の間は、座って休んでいるのだが…。

「…すごいねえ」

 激しい太鼓合戦を、千尋は陶然と聞いていた。

「こりゃあ一雨くるなあ…」

 祭りの世話役の一人が、空を見てうなった。

「え…月が出ているのに?」

 千尋が尋ねると、世話役のおじさんが答える。

「この祇園祭りは、…ほら、あの高台にある鳥居の先にあるお宮さんを祀ってるんだけど、あすこの神さまは水神さんでね、祭りが盛り上がってくると、必ず一雨くるんだよ。…今年の太鼓は、どの町も揃っていて、ナカナカ盛り上がっているから…」

 鼓動はいよいよ迫力を増す。太鼓の振動と、鼓動が重なる。リズムはうねりとなり、炎のように、空が揺らいで…。

 ゴロゴロゴロ…、遠雷の、音がする…。

 おじさんはあわてて、傘を捜しに行ってしまった。

 太鼓の音と、雷の音が、同調し…そして…。

 …ぽつり、ぽつり…、…。

 雨が、降り出した。

 それはまさにバケツをひっくり返したような雨で、テキ屋は商品にビニールを掛けだす。すでに濡れそぼって、あちこちに水溜りを作ったアスファルトを、雨水を跳ねながらおじさんが傘を持って来た。

 千尋は、…傘を手にしたまま空を仰ぐ…。

 そして、見たのだ。雷を縫うようにして、空を舞う白い龍と、黒い龍。二体の龍は、上空で旋回し、今度は晴れていく雲に隠れるようにして、高台の、宮のある方角へ消えていった…。

 千尋は、差し出された傘を受け取り、そのまま差さずに、空を見入っていた。

 見覚えのある、白い龍と、この夏のはじめに体験した事。青い空の下で別れた少年の事を思い出す。

「私は、湯婆婆と話をつけて弟子をやめる、元の世界に、私も戻るよ」

 あるいは、あの龍が、戻った少年なのだろうか、と、漠然と思いながら。

******

「…っ、くしゅん!」

 翌日、月曜は始業式で、千尋はまだからっぽのランドセルをしょうと、何度も何度も確認した小学校へ向かう。祭りの夜、共に金棒引きをやった子達が迎えに来て、千尋はようやく小学生の自分を取り戻したようだった。

 学校へ行く道すがら、例のお宮の前を通った。

 宮司らしいおじさんが、ほうき片手に境内を掃除している。少女達が、多きな声で

「おはようございまーす」

 と、声をかけると、おじさんは笑顔で答えた。

 笑いさざめく少女達と、夕べの雨に現れた宮の鳥居が、露を浮かべてきらりと光った。

 今日から、初めての学校。新学期が、始まるのだ。

 駆けてゆく、少女達の後ろを、少年が一人、ゆっくりと歩いていく。目指す場所は同じ、肩の上で切り揃った髪は漆黒、少女達よりいくらか年上の少年も、また、初めての学校、新学期を向かえる。

 千尋が、少年と、再会するのは、もう、ほんの少しだけ先の事になる。

(了)

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