彼の99%

 

 

 

 

 

 

「モーツアルトに出会ったサリエリみたいな顔ね」

 ふとかけられた声を追って見上げる。学校の交差した階段の上。手すりから身を乗り出すようにしてこちらを見ているショートカットの彼女は、同じ囲碁部の副部長だった。にやにや笑って見下ろす様は、アリスに出てくるチェシャ猫のようでもあった。

「そのモーツアルト君は、どうも囲碁部に入るらしいよ」

 彼女、日高の言葉を否定せずに段を進み、彼はそのまま言葉を継いだ。

「本当?!…岸本君はそれでいいの?」

 並び立ったチェシャ猫の笑みが消える。あわれむような視線をはずして、彼、同じく囲碁部部長の岸本薫は言葉を返さず、年にそぐわない自嘲の笑みを浮かべた。

(いいも悪いも、それを決めるのは自分ではないのだから)

 才能というのは、一人に一つ、必ずはあるらしい。ただ、残念な事に、欲しい才能を必ず自分が持ち合わせているとは限らない。物心ついた頃から願って、努力していた棋士への道は、歴然とした力の差をもって、あきらめざるを得なかった。中学1年の冬の終わりの事。院生になった頃、自分の実力を思う存分思い知らされ、意地で1組に這い上がるには這い上がったが、2組でさえおっつかっつであった自分が、1組に通用するはずもなく…。

 きっぱりと、やめる事もできずに、途中入部した囲碁部で、不本意にも部長を拝命している自分を、特別みじめだとも思わずに、これが自分の分なのだと、振り切ってあきらめたはずの今、今年で卒業という今になって、「それ」は突然現れた。

 プロ棋士を嘱望されている天才少年が自分の学校に進学してきたのだ。

 それだけであれば、別段どうという事もなかった。院生になってしまえば学生囲碁の大会にエントリーする事はできない。仮令、入学してきたところで、同じ盤面に向かう事はありえない。(逆に胸を借りるつもりで向かっていけるのは幸運ともいえた。上級者との対戦は得るものも大きく、そうした機会に巡り合える事はむしろチャンスといえた。)

 それなのに、件の天才少年君は、学生囲碁大会に出るために囲碁部に入るという。

 漏れ聞こえてくる噂。棋譜こそ見たことはなかったものの、折り紙つきの実力をもってまで、いったい何の気まぐれか。問いたいのはむしろ自分の方だった。

「なにがしかの軋轢は生じるだろうね。確実に」

 同行する日高に岸本が言った。囲碁部の部室となっている教室の扉に手をかける。

「僕の仕事は、それを収めて、部員をまとめることだと思ってるよ」

 その言葉は、日高に向けて発せられたのか、それとも自分に向けられたのか。

「実力主義がウチのやり方だというのは、君もわかっているだろう?」

「…でも…」

「彼がうまく立ち回れるよう、君からもフォローして欲しい」

 返事を待たずに、岸本は扉を開いた。碁石を置く音が、まばらな雨のように響く放課後の教室は、昨日入った新入生を含めて活気だっている。入って来た部長の姿に、ピリッとした緊張が走る。副部長がそれに続いた。

 天才とは、いかなる生き物なのか。それはある意味身近で確かめる好機なのかもしれないな。と、彼は思った。今後続けるであろう、意味をなすのかなさないのかわからない努力のためにも。

(了)

戻る>>