後宮の奥つきで、夜な夜な女のすすり泣く声がする、という噂が、パルス王宮内をまことしやかに流れていた。「解放王」アルスラーンはそれを危惧…、というよりも、若者らしい好奇心から興味を持った。…が、一国の王が噂ひとつで動いたとあってはならぬという、宮廷画家にして副宰相でもあるナルサスの言葉を受け、自身での探索をあきらめ、女は女同士、というわけのわからない論法から、女神官であるファランギースと、自称、ナルサスの妻、アルフリードが、事の真相を確かめる事となり…ファランギースが動くとなれば、例の吟遊詩人も行動を共に、三人は、後宮での不寝番を行う事になった。
本来であれば、後宮内に王以外の男は立ち入ることさえできなかったのだが、アルスラーン治世下において、パルス王宮の後宮はその用を成してはいなかった。女主人である王妃はおらず、代行をすべき皇太后は、遠いバダフシャーンの地にて隠棲している。
無人の後宮の一室で、ギーヴは変に浮かれていた。
「いや、まさかこうして後宮内に足を踏み入れることができようとは…、光栄至極」
「あわよくば、抜け道の一つでも探しておこう、…と、いったところか?」
「なんと!恐れ多い、このギーヴ、アルスラーン殿下の妃殿下となられる女性方にそのような下心は…」
「妃殿下方はともかく、後宮には多くの女官が住まうことになろうからの…、まあ、今はその時ではないようじゃが」
ギーヴとファランギースのいつも通りのやりとりを横で聞きながら、アルフリードはすすり泣きの声の主に思いを馳せていた。
無人の後宮の奥庭で泣いている、となると、やはり正体は女官の一人なのだろうか、年はいくつくらいなのだろうか。どのみち、いくら王宮内とはいえ、おだやかならぬ事態ではある。しかし、アルフリードは、宮廷の下働きの娘達は、見知った者も多いが、そういった事態とは、あまり縁のないような、よく言えば和気藹々とした、悪く言えば図太い娘達と、夜な夜なすすり泣く、という行為がちっとも結びつかないのだった。
「やっぱりさあ、何かつらい事があるんだよね、夜、たった一人で泣いてるなんてさ」
どちらともなく、アルフリードが言うと、ファランギースが答えた。
「…生きている人間であれば…そうかもしれぬな」
「それは…」
と、アルフリードが聞き返すと、
「しッ!!」
ギーヴが指を立てた。
しん…と、した無人の後宮は、月明かりの差し込む音さへ聞こえるのではないか、というほど静まり返っていた…が。
遠く、しかし確かに、うめくような、すすり泣くような嗚咽が聞こえてくるのだった。三人は、黙って顔を見合わせると、頷きあって、すすり泣く声のする方へ向かって歩き出した。
後宮の奥庭に、先の王妃であり、今は隠棲しているタハミーネの好んだ庭園があった。中央には噴水があり、遠く、バダフシャーンの花々が植えられていたが、今は庭師の手によって少しずつ変えられている。
月明かりの元、噴水に腰をおろして、水面を覗き込むように、一人の美しい女が泣いている。金色の髪が輝き、身に付けている装束はパルスの物とは異なる。それは、ギランの港町で西国風と称した娼妓達のまとっていた衣装に少し似ていた。
「ほう…、これは…」
その美しさに「美女が好き」で通っているギーヴは感嘆の声をあげた。
「しかし…見かけぬ顔じゃが…何者だ?」
もう少し近づいて見ようと、ギーヴが足を踏み出したとたん。
「誰っ!?」
三人の姿が、噴水の広場に出てくると、雲が翳り、一瞬辺りは闇に覆われた。…が、すぐにまた、雲間から月が指すと、金の髪の女と、長身で糸杉のごとき美女、と称えられたファランギース、赤みがかった髪を持つ快活な女性に成長したアルフリードの姿が浮かび上がった。
「そなた、ここで何をしている」
ためらいなく、ファランギースが金の髪の女に声をかけた。
「泣いておりました…、ここは、どこでしょう?」
女の言葉に一同が面食らった。
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「では、そなた気がついたらここにいた、というのじゃな」
こっくりと頷く。
「いつから?」
アルフリードが尋ねると、女は首を振る。
「では…何ゆえ泣いていらしたのですか?」
ギーヴが、いつもの調子で尋ねると、女は涙を浮かべて答えた。
「あの方、が私を愛してくれないからですわ」
「あの方って?」
アルフリードが再び女に問いかけた。
「私の愛する方です。どんなに恋慕っても、私に答えてくれないのです、…私は、それが辛くて、夜になると、こうして泣いているのですわ」
「夜になると…?ではそなた、昼間はどこにどうしているのじゃ」
ファランギースが尋ねると、女は再び首を振り、
「わかりません…気が付くと、いつもここにいるのです、昼間何をしているのか、記憶が無いのです」
「じゃあ、あんたの愛してる人ってどこの誰なのさ」
女はうつむいてしまった。
「ちょっと待ってよ、じゃあ、あんたは、どこの誰かもわからに奴の事を思って、そいつがあんたを愛してくれないって泣いているのかい?」
アルフリードが語気を荒げると、女はびくびくと身をすくめた。
「おいおい、アルフリード…」
ギーヴがたしなめようとしたが、気にせずアルフリードは続けた。
「じゃあ、あんたの愛する人ってのは、あんたの事を知っているのかい?」
沈黙で、女が答えた。
「あっきれた、あんたの事を知らないのに、どうしてそいつがあんたの事を愛するようになるってのさ、本当に、あんたがそいつの事を好きなら、こんなトコロで泣いてないで、とっとと、そいつに会うなりなんなりすりゃいいじゃないか」
「…でも、私はこんなにもあの方の事をお慕いしているというのに…」
涙ながらに、女は弱々しくアルフリードを睨み返した。
「だからって、相手がそれを知らなきゃ何にもなんないじゃないか、ここでただ辛い辛い、って泣いてたって、何も変わりゃしないんだよ?」
「あんたさ、こんなに若くて奇麗なんだから、たいていの男は、あんたみたいな子に言い寄られて悪い気はしないはずだよ…、そりゃ、まあ、好みはそれぞれだし、もしかしたら、ダメ…かもしんないけど…、でもさ、ここで、ばあさんに成るまで泣いてるわけにはいかないだろ?とにかく、自分で動かなきゃ、何も始まらないんだからさ」
そう言うと、アルフリードは満面の笑みを浮かべて、女の肩をぽん…と、叩こうと手を…、すかっ。
「…」
「…」
「…」
三人は、ばつの悪い笑みを見せて、互いを見た。
「…今、あたしの手、もしかして、すり抜けた?」
にこにこと、女はまだ笑っている。そして、言った。
「私、がんばってみます、あの人に、伝えてみます。ありがとう…」
そう言うと、すーーーーーーっと、女の姿は消えてしまった。
「ファッ…ファランギースっ!!今の!今のわっっ」
「安心しろ、精霊達が騒いでいない、アレは邪霊ではない」
「…そういう問題ではないと思うんだが…」
三者三様に、驚きながら、ともかく、その晩はそれで事が終わった。以降後宮から女のすすり泣く声はしなくなったというし、一応、一件落着、ということに…なるのだろうか。
ともかく、幽霊をしかったというゾットの女族長の噂はまたたく間に宮中を席巻した。
「おや、これは幽霊を諭したアルフリード殿ではないか、どうした、こんなところに一人で?」
中庭でぼーーーーーっと一人庭を眺めていたアルフリードに声をかけたのは、彼女にとっては意中の君、宮廷画家にして副宰相ナルサス、その人だった。
「やめてよ、もう、ナルサスまで」
少しつめて、場所を空けると、ナルサスはアルフリードの横に腰を下ろした。
「…あの子さあ、好きな人がいるっていうのに、告白もできなかったのかなあ、それで、あそこで、ずっと一人で泣いていたのかなあ…」
「異国の娘だったそうだな、…あるいは、かつて後宮にいた女官の一人だったのかもしれない、恋しい相手がいても、告げる事もできずに、死ぬまで後宮に繋がれていた、という」
「…そっかあ、もしかして、あたし、悪い事言っちゃったのかなあ…、好きな人に、好きっていえない子も、いたのかなあ、黙って、一人で、私を愛して、って、叫びつづけた子が…さ」
憂いをこめて、アルフリードの瞳が伏せられる、そうして黙っていれば、実はアルフリードはかなりの美女だったりするのだが、あえてそれを口にするようなナルサスではなかった。
「アルフリード…」
「あたしはさ、幸せだよね、好きな人に「大好き」も「愛してる」も言えるんだもん、ナルサスも、安心して、あたしに告白してくれていいんだよっ」
ぱふ。っと、アルフリードがナルサスの腕にしがみついた。
「おっ、…おい」
「ナルサス…、私、ナルサスに『私を愛して』なんて言わないよ、だって『私がナルサスを愛してる』んだから」
そうした顔が、いつものやんちゃなアルフリードらしからぬ、あまりにも大人びていた表情だったので、ナルサスは振りほどく事ができなかった。
「…アルフリード…私は…」
「あああああっ!いたっ!ナルサス様!まだ政務の途中なんですよ!こんなトコロで油売ってっっ!!」
エラムの声が響いた。ナルサスはハッと我に帰り、アルフリードの腕を解くと、逃げるように立ち上がった。
「おっと、いかんいかん、まだ仕事が残っていたんだっけ、では、な、アルフリード」
そう言って、ナルサスはそそくさと立ち去ってしまった。
アルフリードは、一人残された、そして、わなわなと震えると、
「…エラムの奴ぅ…!!!」
声に出してそう言うと、どすどすと床を踏みしめて、馬で蹴ってやる、といわんばかりに、ナルサスの後を追った。
パルス宮廷の中庭の木々を、風がやさしく揺らしていた。
(了)