素乾国十八代皇帝、元号で呼べば槐暦帝。最後の皇帝である、彼の、内憂外患その言葉のままに、内には皇位を狙う皇太后一派、外を見れば反乱軍、という世相のさなか、心やすらぐ唯一の場所が…。
「わたしが道女になったらどうするのよ」
「その時は抱くまでよ」
にっこりと笑い、しれっと言うのが、皇帝その人、双槐樹、コリューン。柔らかな印象を与える形の良い相貌。亜麻色の髪を黒の髪巾で束ねた黒衣の青年は、そう言って妻である銀河の横に腰を下ろした。
銀河、銀正妃。『三食昼寝付』という冗談まじりの噂を真に受けてか、それとも単なる退屈しのぎか、宮女になった娘は、なんと、皇帝の第一夫人となって、皇帝と対面した。しかしながら、姿そのままの幼さは、いまだ皇帝を受け入れるには達していない。それが幸いし、常に命を狙われている双槐樹の避難場所として、皇帝は足繁く銀河の元に通う事となった。
なーんとなくお茶を飲んだり、お菓子を食べたり、二人は老成した夫婦のような毎日を送っている。双槐樹の話はおもしろかったし、銀河にとっては退屈とは縁の無い平和な生活だった。
…では双槐樹は?
「…ちょ、ちょっと待ってよ!同じ寝台で眠るの?」
既に双槐樹は寝台の端に寝そべっている。流石に全身黒衣というわけではない。くつろいだ夜具に着替えている。
「わしとお前様は夫婦にて、睦まじくせねばなるまい?女官が来た際、別々に眠っていたのでは不信に思われるだろう、…第一、ここに寝台はひとつしかない。まさか、床で寝ろ、とは言うまいな」
「心配せずとも、幼子に手を出さねばならぬほど、修行不足ではないつもりだが?」
…にっこり。と、悪意の無い笑みに、どちらかというと、小馬鹿にされたような気がして、銀河は憤慨したが、床で寝るのは嫌だったし、ここは双槐樹の言うとおりにする他なさそうだった。
実際、銀河は幼く、共寝する二人は、夫婦というよりもむしろ兄妹か、どうかすると親子に見えたに違いなかった。
はじめのうちは。
最初こそ、男性と床を共にする事にためらいを感じていた銀河であったが、慣れてしまえば、幼少時に、父のふとんにもぐりこんでいた頃と変わらない。だが、銀河がそれに慣れた頃、双槐樹の方に不具合が生じた。それは、銀河にもまったく責任が無かったわけでは無くて…。
双槐樹と、話すのは楽しかった。双槐樹がやってくると思うと、そうそう、だらけているわけにもいかず、また、銀河付の女官達も、我らが正妃様は皇帝の寵愛を賜っている、という自負心から、とにかく銀河を着飾らせた。
見てくれる男性と、見目形を指導する者がいた際、少女の開花の歩みは早い。銀河は、我知らぬうちに、どんどん美しくなっていった。
ぞんざいな仕草は相変わらずであるというのに、生来のあどけなさと、成長途中のあでやかさの混在は、不思議な魅力となって双槐樹を刺激した。
たとえば、甘い香りであったり。
たとえば、次第丸みをおびてくる肢体だったり。
いつものように並んで休んだ、それは月夜の事だった。
先に眠った銀河はやすらかな寝息をたてている。いつもより、ほんの少しだけ肌寒い夜に、銀河は人肌恋しさに双槐樹に擦り寄った。白い指先が、双槐樹の袖の隙間に入り込む。
ぴったり、と張り付いた銀河の体は、確かな弾力となって、双槐樹の劣情を駆り立てた。
実にこれが無意識なのだから恐ろしい。双槐樹の腕に、銀河の腕が絡み、すべらかな肌と肌が触れ合った。銀河の髪は、甘い香りがする。紅を差ささない、素の顔だというのに、月の光に照らされた銀河の唇は柔らかくほんのりと赤かった。
白い喉から、その先に、襟元から見える肌。
「…まさか、わざとではなかろうな」
すっかり目が覚めてしまった双槐樹は、宮中の礼典を一からそらんじてみた。仏典の知識があれば経を唱えたのだろうが、あいにくそれは諳んじるほどではなく。
銀河は童女。銀河は童女。銀河は童女…。と、ついには、呪文のように繰り返す始末。
最も幼い筈の娘を選んだつもりが…。と、思いながら、実は単純に銀河に惹かれていたのだという事実に気がついてしまった。これは、なかなかに茨の道だったのではないか、と、悔いたのは一瞬。
深く溜息をつくと、真実、横に眠る娘を名実ともに正妃にできるよう、内の敵と、外の敵に立ち向かう決意を、改めて、誓った。
銀河といえば、「童女に手は出さない」の言葉に安心しきって、狼の横で、寝息をたてていたのだった。
それは、滅亡前の、宮中絵巻の一幕。
ひとときの、皇帝のごくごく私的な苦悩…。
(了)