荻野家の屋根に、白い羽の矢がささっているのを、見つけたのはお母さんだった。
「あら、何よ、これ、誰かのいたずら?」
それはベランダの少し先の辺りにささっていて、それをとるために、お父さんははしごを、庭からベランダまで伸ばし、少々難儀をしているようだった。
「こりゃ、本物の鷹の羽だよ、結構値打ちもののはずだし…いったい誰が…?」
「この辺りで弓をやっている人なんていたかしら?でも、昨日見た時は無かったのよ」
「いたずらにしろ、何にしろ、ちょっとご近所さんに聞いてみようか、何かわかるかもしれないし」
新学期の始まった最初の日曜日の朝は、そんな風に始まった。千尋は朝寝坊をしているので、まだ夢の中にいる。
…それは奇妙な夢だった。
山奥の、湖の水面の上に、とぐろを巻いた龍が浮かんでいて、岸に立つ千尋をじっと見つめているだ。千尋は、みじろぎもせずに、龍に向き合っていた。怖い、とは思わなかった。その龍は、千尋の良く知っている龍にとても似ていたので。
白い龍が、人の姿をとる。白を基調とした、豪奢な絹の衣装を纏った少年は、そのまま、水面を浮き、ゆっくりと岸に向かって歩いて来る。少年の歩いた跡に、波紋が残って、互いに干渉し合っていた。
「千尋ーーーーーっ!いつまで寝てるのーーーー!!」
母親の声で、一足飛びに目を覚ますと、千尋は、急激に目を覚ました。ぱちり、と開いた目が写すのは見慣れた天井で、あまり急に目を覚ましたので、先ほどまで見た夢の内容をすっかり忘れてしまったのだった。
パジャマのまま一階に下りていくと、階段の先の玄関に、客が来ていた。
「まあ、千尋ったら、そんなカッコで!」
お母さんが千尋をとがめる。千尋は、あわてて部屋に戻って身支度を整え、様子を伺いながら一階へ降りていった。
「冗談じゃない!そんな前時代的な事があってたまるか!!」
客間から、聞こえてくるのは、 お父さんの怒声。不審に思った千尋は、そっと襖に耳を当てて中の様子を伺ってみた。
「いえ、ですから、そう人身御供といっても形式的なものなんですよ」
客はどうやらお祭りの際に千尋に金棒引きの役割を持ってきた区長夫人のようだった。
「祭りの後、白羽の矢がたつ…という伝説は、確かにあったんです。50年ほど前にも一度、あったとか、でもその時に『花嫁』になったお嬢さんは無事に帰ってきましたし、かえってその『花嫁』の出た御宅、というのは、たいそう栄えるという伝説もあるんですよ?」
『花嫁』、『人身御供』という言葉が、かろうじて聞き取れた。…いったい何の話をしているんだろう。と、聞き入ろうとした刹那、ふいに襖が開いた。
「…千尋?!」
バランスを崩して千尋は客間に倒れこんでしまった。
つまり、区長夫人の話とはこうである。
祭りの後、ごくごくまれに、地区の家の屋根に白羽の矢がささることがある。これは水神の花嫁の証で、白羽の矢のたつ家には、かならず娘がおり、その娘を主人公に据えた神事が、密やかに行われている、ということらしい。大掛かりなものではないが、水神の花嫁は精進潔斎して、神社の、その時専用にあつらえられた一室で一晩過ごす。これは神との婚姻を意味し、以降、その娘は、人の嫁となるまで巫女として神の言葉を聞くことができるようになる、というのだ。
「まさか、この町にそんな旧態然とした風習が残っているとは思いませんでしたよ」
ひどく憤慨した様子でお父さんがまくしたてる。
「ですからね、荻野さん、一室に篭るといっても、神社の内ですし、危険な事なんてないんですよ、本当に、一晩お泊りする、くらいに考えてはいただけませんか?…ね、千尋ちゃん、どうかしら?…やっぱり怖い?」
油屋での一件を思い出した千尋は、神を不用意に恐れるような事はなかった。だから、自然に承諾し、神事に参加する事になった。お父さんは、最後まで反対していたけれども。
神事が行われるのは白羽の矢がささって、次の満月の夜に執り行われる、準備はすべて神社の方で行うから、当日は、精進して、迎えを待って欲しい、という言葉を残して、区長夫人は去っていった。
…千尋の周囲で、何かが始まろうとしていた。
再会を約束した少年には、まだ、出会っていない。
(了)
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