aqua amnesia

 

 

 

 蒼天、藍の天鵞絨にも似、深き淵よりいずるモノ。溶かした光が飴細工のごとくに降り注ぐ、深海の底より…。

 青年が一人、年の頃は二十四五、総髪は艶やかな漆黒、日々の漁で、日に焼けた四肢は、張りが良く、ぼろをまとっていなければ、若侍で通るほどの、敏捷性を秘めたすらりとした体躯であった。

 いつものように、浦で釣り糸を垂れていると、はたしてかかったのは一頭の亀。

「はて、生あるものの中でも、鶴は千年、亀は万年とて、命久しきもの、ここにて命を絶つはあまりにもいたわしい」

 と、元の海へ返したり。

 さて、その翌日、同じように同じ場所で、垂らした釣り糸を止め、海上を見やると、女房装束の女が一人、木の葉のごとき頼りない態で小船に身を任せて立っていた。射干玉の黒髪が頬にかかり、物憂い視線は定まらず、ふい、と気を抜いたら、そのまま波にさらわれそうな危うさで。

 すわ妖しか、はたまた魍魎。女の視線が、青年を捕らえた。

 女が、青年を見る。

 青年が、女を見る。

 からみつき、蕩ける視線に、青年は身じろぎひとつせずに、その場に立ち尽くした。

 船が揺らぎ、女がよろける。青年は、無我夢中で海中へ飛び込んでいた。小船へ泳ぎより、船の舵を取り直すと、女をゆっくり座らせた。

 前髪にしたたり落ちる雫を払いながら、ちらちらと女の方を垣間見る。

 女は、ぽつりぽつり、と身の上を語り出した。

 女の乗っていた船が沈み、多くのものは海へと消えた。心ある者が、女を小船へ移し、難をのがれたものの、よるべなき身の上であれば、このままいっそ鬼の島へも、と思っても、船を操る術もなく、こうしてここへ辿り付いたと、さめざめと泣く。

 哀れに思った青年は、船を操り、女の教えに従い、十日あまりの航海の後、故郷という島へ辿り付いた。

 銀の築地、黄金の甍、天上界もかくやたらん竜宮城が、女の住まいであった。…もてなされるままに、幾日かを過ごす。

 青年は、女に溺れた。かぐわしき白い肌と、日に焼けた青年の黒い肌が触れて、混じる。天上の芳香、典雅なる楽の音。すべらかな絹の上に、女の黒髪の海が広がる。のしかかる青年の重みを、確かな感覚として、女自身が海となる。

 青年の愛撫に、答える時の女の頬は上気し、嫣然とした笑みが、青年の劣情をさらに駆り立てた。

 地にあっては連理の枝。
 天にあっては比翼の鳥。

 偕老同穴の語らいも浅からず、互いに鴛鴦の契り堅く、いつしか三年の時が過ぎた。

 さしもの青年も、残してきた親が気にかかる。三十日の暇をもらい、一度故郷へ戻る算段となったのだが…。

 行ってくれるな、と女が泣く。そうして取りすがる様を、青年はにくからず思ったが、やはりそこは孝行息子、何とか女を説き伏せたのだが…。

 女が、ひとつの美しい小箱を取り出して言う。

「この箱を、お渡しいたします…ですが、決してあけないで下さいませ…」

 はて、これはまた、と、男は奇妙に思った。あけてはならない箱であれば、そもそも手元にはいらない無用の長物、と、断ろうとしても、それを持っていかねば故郷へ戻ることは許さない、という女の言葉にしたがって、言うがままに箱を受け取った。

 さて、故郷に戻った青年であったが、どうも見知ったとは違う風景に戸惑いながら、父母の住みたる元の家へ足を運び…見たものは…、既に人跡絶え果てた草原があるばかり。

 やっとの思いで土地の古老を探し出し、浦島の太郎と名乗りはしたが、古老に曰く、その家は七百年も昔に絶えて久しいとの答え。

 青年、…太郎は、大いに驚き、古老に導かれるまま、もはや墓石さえも風化している父母の廟所を前に、呆然と立ち尽くした。

 親もなく、見知った者どももいないこの地で、いかにするべきか、青年は我を失っていた。そして、手元にあるは、女の元より持ち出した箱。「あけるな」と、言われた箱だが、青年は、自分を失っていた、いてもたってもいられず、蓋を取る…と。現れたのは、紫の雲三筋。

 若々しかった青年は、見る間に年老いていく。                                                                                           総髪の黒髪は、たちまち銀色に、日に焼け、張りのあった肌は見る間にしわがれていく。青年は、そうして、その場に蹲り…。

 丹後の国、松の浜より、一羽、ひときわ大きく羽を羽ばたかせて、一羽の鶴が、飛び立ったのを、土地の者が見たとか…。

 はたして、その正体を、かつて青年に救われた亀であった女は、鶴に転じた浦島太郎と共に、今では、夫婦の明神として、丹後の国、浦島の地に祭られているという。

 海の底よりあらわれ出でて、深き淵へ絡めて落ちていく、男と女の昔のお話し…。

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