水に太陽が揺らめいて、キラキラと光を乱反射させる。息が苦しくてもがいているはずなのに、視覚だけが切り離されたように、その光景は美しく、思わず魅了されてしまう。そうして、ゆっくりと、暗い水底に体が重く沈んでいく、急なはずの川の流れを感じないまま、喉の奥まで水が満ちてくる。あたかも母の胎内にいるかのような安らぎを、その時少女は感じていた。

 

 

約−CHIGIRI−

 

 

 あれ?と、概視感を感じて立ち止まる。むら無く一息に塗られた空はどこまでも青く、色とりどりの花の咲く野々原の、地球の丸さを感じるかのような地平線の先には誰もいない。ああ、そうだ、ここはおばあちゃんの家の近くだった、と、思い直して、千尋は安心して大きく息を吸い込んだ。伸びやかな手足に、引き締まった足首で、躊躇なく野原に分け入っていく。脆弱な温室育ちではない、野育ちの花は、千尋一人に、踏み荒らされもせず、強くしたたかに露を帯びて凛としていた。薄い緑色に染めた少し大きめなTシャツは、かすかに乙女のまろやかな体を包み、少々やせぎすな足が、カーキ色のキュロットスカートから伸びている。少女と乙女の境といった年の頃、開花する間際の蕾のごとき風情ながら、ぞんざいな立ち居振舞いに、いまだ幼さが残る。
 ふいに、視界が塞がれた。

「ひっ…」

 と、驚いて千尋は頓狂な声をあげた。

「だーれだ」

 まぶたの向こうに、人のぬくもり、背後に立つのは、どうやら千尋よりも背が高いのか、頭の後ろ、さらに上から声がした。

「誰?」

 と、振り向こうとしたところを、ぐいっときつくまぶたが塞がれる。引き寄せられて、頭に広い胸板がぶつかった。

「もー、誰よー…お父さん?」

 心の中で、でも、お父さんはこんなに背が高かったかな?と思いながらも、さしあたり、思いつきを言葉にしてみる。

「はずれ」

 その声は、聞き覚えの無い低い声…けれど、どこか懐かしい。

「うーん…」

 千尋は考え込んでしまった。たったひとつ、ひとつだけある心当たり。

「いーち、にーぃ、さーん…」

「…ク…?」

「聞こえない、もっと大きな声で」

「…ハク?」

 声に出して、はっきりと言う。それは遠い、約束の人。ふいに、腕の戒めが解かれた。強く塞がれた瞳は、一瞬光になれず、フォーカスがぶれた。視界の先には、青い空と、緑の草原、と花々。背後の人は、そのまま動かず、千尋が振り返るのを、まるで待っているようで…。

「おおあたりー」

 ゆっくりと、結ばれた像。同じくらいだったはずの視線は、千尋の目線よりも随分高く、切りそろえた髪は、肩をいくらか越している。細かく、同じ色の糸で刺繍のほどこされた白い狩衣から除く、浅葱の衣。変らない相貌は翡翠色。そして、何より彼は微笑んでいた。

 涙でくしゃくしゃにした顔のまま、思い切り千尋が飛びついたので、ハクは千尋を支えきることができずに、そのままよろけて草の褥に千尋ごと倒れこんだ。

「…いたたたた…、千尋、そなたは少し重くなったか?」

「…会いたかった…、会いたかったんだよ…ハク…」

 随分失礼な物言いは照れ隠しなのか、重い、と言いながらも、ハクはしっかりと千尋を支えていた。たいそう広くなった胸に額をうずめて、千尋が嗚咽する。ハクは呼吸を整えて、千尋の肩をさすり、ぽんぽん、と叩いてやった。震えていた千尋の肩が、ゆっくりと、小刻みな動きから、大きな揺れになると、そのまま、ぐい、と力を篭めて、その胸に抱きしめた。

「ところで千尋、そのまま私の胸に顔をうずめるのはいっこうかまわぬのだが…、その…」

「ご…ゴメン!重かった?」

 と、あわてて千尋がハクの腕を振り解き起き上がった。

「…いや、それではなお悪い…というか、その…」

 ハクの腕の中に居たときは全身を預けていた千尋が、あわてて起き上がろうと、ハクの下半身に馬乗りになっていた。

「私は、かまわないけれど?」

 と、下に横たわるハクが頬をうっすらと染めて笑う。とたんに千尋は顔を真紅に染めて飛び退り、何故かキッチリ正座でカチンコチンに堅くなってしまった。

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