夏にあったちょっとした事件以来、吉岡ハルは、時間が空くと十字街に足が向くようになっていた。その日は先生達の研修日で、授業が午前で終わり。クラブ活動をしていないハルは、いつも通り、雑貨屋や本屋をひやかしながら、 とある「猫」を探して視線を泳がせる。
ふと、一匹の黒い猫で視線が止まった。
どことなくある気品は、かつて出会った、猫の国の王子だというルーンを思いおこさせる…。が、こころなしか傷ついてよろけているようにも見える。しかし、その眼光はするどく。
漆黒の毛並みと、紫水晶の瞳が印象的な猫と、ハルの視線が合った。
まさか、と、一瞬ハルは目を逸らしたが、猫は視線を動かさず、じっとハルを見つめている。
ハルは、今度は確信を持って黒い猫を見返した。
「ついて来い」
そう問い掛けてくるような、黒猫を追って、ハルは再び路地裏に迷い込んでいった…。
一方、猫の事務所、地球屋では…。
「だーーーーもーーーーっっ!!いいかげんにしやがれってんだ!あのクロスケっ!」
叫んでいるのは、ムタ。でっぷりとした腹を揺らせて、擦り傷切り傷に張っているバンソウコウが痛々しい。ムタの言う『クロスケ』とは、『マックロクロスケ』『くつずみヤロー』こと、ガーゴイルのトトではなく、先だって地球屋を急襲した黒猫。猫の国王室付親衛隊長のミカエルのことだった。宣戦布告のあの日以来、突然やってきては、名乗りをあげ、ムタに襲い掛かり、ぶちのめされて帰っていく。
「それでも、いちいち名乗りをあげて襲い掛かってくるところは律儀だな、さすが近衛隊長…礼儀正しい」
まったく見当違いな所を、猫の事務所の主であるバロンが誉めた。
「誉めてる場合かっ!オレは迷惑してんだ!」
激昂するムタの傷は、実はそれほどの重症では無い。むしろ、かすり傷程度だった。そしてそれは相手も同様で。
「しかし、ムタ、そう言いながらキミは、徹底的に彼を痛めつけないね…何故?」
憮然として、ムタがその巨体を震わせて、どすん!と椅子に深く腰掛けた。ムタは答える気が無いのか、口をへの字につぐんだまま、足を組んでいる。その時だった。
開け放たれていた窓から飛び込んで来た一本の矢!!
それは、あわやムタの鼻先を掠め、壁に突き刺さった。勢いついた矢羽は、まだ揺れていて、それには、古風にも手紙が結わえてあった。
「っ!誰だぁっ!!」
ムタが窓の外をうかがい叫んだが既に気配は無く、羽根音が聞こえてきたかと思うと、矢を打ち込まれた窓から、ガーゴイルのトトが顔を出した。
「なんだ、ムタ、ついに暗殺されそうになったのか?」
意地悪そうにトトが言う。
「誰がだっ!やい、クツズミ野郎、お前、不審なヤツを見かけなかったか?…っても、お前の鳥目じゃあ無理か」
ムタの言葉に、カチン、ときた顔を作ってトトが答えた。
「…黒い猫だったな、いつものやつかまでは、わからなかったけれど…」
「どちらにしても急がなくてはならないな」
何時の間にか、出かける支度を整えたバロンが言った。既に手袋を付け、手には帽子とついこの間新調したばかりのステッキを持っている。
「なんだよ、バロンまで」
ムタの言葉に、バロンは黙って、矢に結ばれていた手紙を差し出した。
「おい…これ」
「…彼は、あの黒猫君は紳士だと思ったがね、まさかこんな事態を引き起こすとは、にわかには信じがたいよ」
そう言うバロンは、少し怒っているようだ。
「おい、男爵、わたしにもわかるように説明してくれよ」
すると、バロンは、トトを見上げるように、言った。
「ハルが、さらわれたようだ」
「なんだって!?」